こんにちは 院生一号です。
先日、ちょいと気が向いたのでぴら~っと岡山まで遊びに行きました。
晴れの国岡山、大都会岡山です。
新幹線でひとっとび、二時間ちょっとというのですから、岡山も近くなったものです。
さて、岡山駅からは吉備線というローカル線に乗ります。
岡山の中心地から西へ、総社まで田園地帯をディーゼル車がすすむのどかな路線です。
そうそう、この列車のドアは自動ドアですが、自動では開きません。
「何をいっているんだこいつは」と思うかもしれませんが、
乗り降りするためにドアを開けたい人はボタンを押すとそのドアが開くようになっています。
九州に住む私たちにはなじみの薄いことで、冬の寒さが厳しい地方ではよくある形式なのですが、
岡山に限らず旅行先で列車に乗る場合にはご注意ください。
さて、話を戻しますと、吉備線にのり吉備津という駅でおります。
道なりに鳥居をくぐって10分程で吉備津神社につきました。
吉備津神社は備前、備中、備後のいわゆる三備の中心となるお宮で、崇神天皇の時代にこの地方を平定した大吉備津彦命をまつっています。
崇神天皇の時代は正史では紀元前八八年というので、どこまでが本当かはわかりませんが、
起源がわからないほど古い神社ということですね。
茅の輪をくぐって拝殿です。
吉備津神社の本殿と拝殿は一つの建物からなっていて国宝に指定されています。
一般的には本殿と拝殿はつながっていても別々に建てられていることが普通なのですが、変わった形式ですね。
本殿拝殿の横に長い回廊があります。これは有名ですね。
地元の小学生が描いた灯篭が飾ってありました。
これはこれで、かわいらしいです。
さて、吉備津神社を後にして、吉備津駅に戻ります。
同じ路線でもう一駅行くと備中高松駅です。
うどん県ではありませんよ。備中高松駅です。
二度言いました。ピンときた方、正解です。
実はこれが今回の旅の目的地。
備中高松城址です。
備中高松城は、中国地方の覇者毛利軍と織田信長の中国地方方面軍団長羽柴秀吉が激戦を繰り広げ、水攻めが行われたことで有名です。
羽柴軍はたった12日で3km以上にわたる築堤を築き、折からの長雨により高松城は水没したのです。
補給が絶たれた高松城内では大変な状況であったようですが、1か月ほど耐え抜き
ほどなく本能寺の変という一大事件が起こります。
連絡を受けた秀吉は毛利勢に信長の死を悟られないようにしながら、有利な条件で講和を結び
高松城主清水宗治の切腹により講和が成立しました。
清水は城外を覆い尽くす水面に小舟を浮かべ、その上で腹を切ったといわれます。
辞世の句が残っています。
「浮世をば 今こそ渡れ武士の 名を高松の 苔に残して」
うむ、かっこいいですね。
毛利本家の未来と高松城の将兵5000名の命と引き替えに自らの命を差し出した、
宗治の潔さと武士道の精神が綴られた名句だと思いませんか。
切腹し介錯を受けた清水の体は、城へ戻ってきて読経ののちに高松城のそばに埋められました。
胴塚が高松城のすぐそばの民家の私道沿いに残っています。
さて高松城ですが、歴史公園として整備され、市民に親しまれているようです。
近所の小学生が走り回ったり、木陰で高齢の方がおしゃべりをしていたり、こういう光景もいいものですね。
池にはハスが生い茂り、ちょうど花を咲かせる季節でした。
なんとこのハスは植えたものではなくて、自然に発生したものなんだそうです。
整備が行われたときに、掘り返した土に埋まっていたハスの種が目を覚ましたといわれています。
清水宗治の逸話に思いをはせるもの悲しいハスの群生地です。
さて、秀吉が築いた築堤ですが、現在はほとんど残っていません。
築堤の南端にあたるごく一部だけ、築堤跡といわえる盛り土が残っています。
このあたりの山の上に秀吉が陣をおいていました。
案内に従って山道に入ります。
しかし山道です。斜面もきついです。
汗がしたたります。水をもってくればよかった。
呼吸も荒くなります。日頃の運動不足がうらめしい。
ほどなく、開けたところにつきました。秀吉が陣をおいた持宝院跡です。ここの脇に清水宗治の首塚跡があります。
切腹を果たした清水の首は秀吉側に引き渡され陣に埋葬されました。
明治になって地元の有志が高松城内に移転させたのだそうです。
現在の首塚です。高松城内にあります。
まだまだ道は続きます。
少々つらくなってきました。
道の先のほうから、何やら話し声が聞こえます。先客がいるのでしょうか。
そこここの茂みや足下で、ざわざわと何かが動いています。
蛇でもでたら大変です。トカゲはたくさん見かけたましたが。
木の棒を振り回してクモの巣を払いながら進みます。
道をふさぐように大きなクモの巣がいくつも張っています。
そこで、気づきました。ちょっと待てと。
先客がいるならクモの巣なんてないだろうと。
じゃあ、さっき聞こえた話し声はいったい・・・
ううん、だんだん怖くなってきました。
気のせいだろうと自分に言い聞かせながら、さらに歩みを進めると
急に光があふれ開けたところにでました。
太閤岩です。ようやくつきました。
大きな岩が山頂に鎮座しています。
秀吉がこの岩から水攻めで水没していく高松城をながめていたのでしょうか。
現在は木が茂っていてお城のほうは見えないようでした。残念です。
さて、山を下り、今度は築堤の北端、川の水を取り入れていた取水口跡に向かいます。
汽車にのるのもいいですが、ここはあえて歩くことにします。
住宅が点在する田園地帯を突っ切って進みます。
吉備の国と呼ばれ巨大な古墳を築くなど大いに繁栄していた古代のころから
実りの多い豊かな土地だったのだろうと思いを馳せます。
田んぼを抜けてきた風が稲特有の甘い香りを運んできます。
田んぼに広がる深い緑と抜けるような空の青が一枚の絵画を見ているかのようです。
ほっこりします。いいですね、こういうのも。
川に出ました。足守川といい、この川の水を水攻めに利用したそうです。
この川の堤防で、足守駅のすぐ近くに「水取り入れ口」の碑が立っていました。
といっても遺構がなにかあるわけではないようです。
その少し上流の小高い丘の上に生石(おいし)神社があります。
ううん、階段ですね。そろそろ足にも限界が近づいているような気がします。
ちょうどこの神社の付近に陣を敷いて、取水口を守っていたのが、われらが加藤清正です。
清正公さんもいい仕事していますね。
何か碑でもないかと思って行ってみましたが、残念ながら何もないようです。
川沿いに少し散策をしていると、なにやら挑戦的な橋がありました。
特に「このはし渡るべからず」とは書かれていないようです。渡ってみましょう。
真ん中を。
木でできた橋の板が意外とぐらついて足元が不安定です。疲れた足には少々つらい。
橋の向こうの道を走る車の運転手さんが、なにやってんだこいつという目でみていました。
目が合いましたが、気にしない気にしない・・・。
鳥がいますね。カモとサギでしょうか。のどかです。
さて、今回はこのくらいでおしまいです。
特に落ちはありませんが、なかなか心が洗われるいい旅でした。
歴史に触れるまったりとした時間の流れというのもいいものです。
このブログが、院生一号の旅日記になりつつあることは気にしないでおきましょう。